昭和54年3月28日 朝の御理解

御理解第九十五節
「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」

 ええ、今日は、ただ今から、若先生の、あと二人の先生方が、宮崎の網さんのところの十日祭ですから、今から、すぐ出発するわけですけれども、うん、御礼のことども考えよったら行かれないですね。一日がかりでね。ある、私、こりゃぁ、まぁだ、信者時代に、北京から引き上げて帰って、すぐの時分に、うん、戦死者の遺族の会合がございました。その村の、町の、お坊さんたちのみんな集まって、なんか総合慰霊祭かなんか、といったようなことの時にでしたけれども、あるお坊さんの発言でしたけれど、「もう、その、合同、この慰霊祭というのは、いわば、謝礼が少ない。だから、衣の袖賃もないから、考えてもらわにゃぁ。」という話しを聞いて、ええ、まだ、たいした信心もでけていない時でしたけれども、「まぁ、本当に宗教そのものが、地に落ちてしまったなぁ。」というような感じをしたことがございます。これは、今、あらゆる宗教が、そうでしょうけれども、金光教も、やっぱり同じですけれど、「どうしたならば、信者を獲得することができるか。どうしたなら、沢山の人が、集まってくるようになるか。」と、という方法論を、ね。「どうしたならば、沢山、お客さんが入ってくるか。」という、いうなら、デパートとの宣伝と同じのような感じがするわけですね。教祖様は、はっきり「此方は、ね、商法には、してはならん。」と。「此方は、銭金じゃぁ拝まん。」と、こう仰しゃっておられる、そういう教えが、だんだん、希薄なものになってきた、ね。問題は、「人が助かることさえができれば。」である、ね。お礼なんか問題じゃぁない。「いくらなからなければ、拝まれん。」というのじゃぁない、ね。祈祷料が、いくらというわけでもない。ご神ぷは、一体、いくらというわけでもない。それが、いうならば、金光教の信心の建前である、ね。それは、教祖様ご自身が、天地の親神様から、神、依頼を受けられた。いうならば、天地が示すがままに、開けた道だからであります。宗教とは、「ウ冠に示す」と「教える」と書いて宗教という、ね。「人が助かる」ということでもです、ね、「どうしたならば、人が集まるだろうか。」と。沢山、集めて、まぁ、助かる、助からんは、別として、ね。うん、「人を集める」ということだけに、きゅうきゅうとしておる。結局、人間の知恵やら、ね、ええ、で、宗教だとしておるからである。宗教は、どこまでも、天地が示して下さる、いうならば、合楽で頂いておる信心。しかも、合楽で言われる合楽理念。そういう、宗教の、いうならば、ああ、以前の宗教としての、うん、実証というか、ね、が、だんだん、合楽でも、明らかになってきた。天地、りん、ええ、の心、地の心という、先日から、ご本ができました。ええ、いよいよ、天の心を心とし、地の心を心として、ね、神様も助かってくださり、私共も助からせて頂けれる手立てが、合楽理念によって解かれる。そういう素晴らしいこと。そういう事実を踏んまえてからでも、それを、ただ、宣伝したから、「宣伝して広げよう」とは思わない。ね。いよいよの助かりを求めて、来る人たちに、ねんごろに、その道理を話して聞かせ、言うて聞かせて、ね、そして、天地との交流を願わし、願って、のことである。ね。いうなら、鳴り物入りで、人を集めても、それが助からなかったら、ね、本当の助かりにつながっていかなかったら、私は、宗教としての値打ちがない。人間の、いうならば、本能的欲望というものが、満たされることを幸福と思っておる。

これは、昨日、宗教の時間にでしたかね、夕晩、遅く、なんか、放送してます。そのなかにですね、そういうことを言ってます、ね。「果たして、私共の本能的な欲望というものが、あのう、満たされたからというて、果たして幸せになるものだろうか」ね。「人間の欲望というものは、限りがない。限りない欲望が、満たされたからというて、幸せであるということではない。」ね。その問題、その難儀、満たされない、与えられない、いうならば、悩み、ね。満たされない、いうならば、苦悩といったようなものが、ね、「神愛で分かり、『おかげ下さろう』とする神願の、何ものでもない。」ということが、分かった時、悟れた時に、はじめて、人間の、いわば、幸せ、人間の幸福というものはあるもんだ。してみると、現在の時点、時点の中で、ね、現在、踏まえておる問題とか、難儀とかという、その問題そのものが、ね、「有難い」と分からせて頂くために、私共は、おかげを頂き過ぎるほどに、頂いておる、頂きすぎておるおかげを、先ず、分からなければならない。そして、御礼を申し上げるところは、申し上げて、願わしてもらうところを、願わしてもらい、ね。おかげを頂くための、いうなら、手立てを、まぁ、合楽理念に求める。

昨日、研修の時に、うん、これほどの素晴らしい、今、合楽で言われておる、ご信心を、ね、噛んで含めるように教え、噛んで含めるように伝えておる、また、それを受けておる、合楽の関係者。関係信者、信奉者の、こりゃぁ、もう、人達が、本当に、「なになには、合楽理念をもってするほかにない。」というようなおかげを、先ず、頂いてもらわなければ、こりゃぁ、広がらない、ね。こういう、素晴らしい、いうなら、信心を、ね、世界万国にでも広げたい、いや、広げられれる内容、ね。どこんにでも、浸透していけれるところの内容をもっておる合楽理念であっても、ね、それを、実証する。合楽に関係のある人達が、実証して、それを広めていく。いうなら、示現活動に参画する。論理的に解けば、「なるほど、そうだなぁ。」と。「合楽で言われておる通りに、確かに、宗教以前の宗教だ。」と。「今までかつて、そんなことを聞いたことがなかった。教祖のみ教えは頂いてきたけれども、教祖のみ教えの中に、そんな深い広いものがあるとは知らなかった。」。それが、明らかにされてきた。そして、ここでは、それを、もとにしてのおかげを合楽教会が頂いておる、ね。だから、合楽教会だけが頂くのではなくて、ね、合楽教会に関わっておる、いうならば、教会、教師、信奉者のみなさんが、ね、それを、頂き現してくださらなければならんために、いよいよもって、合楽理念の実験を実験者として、そして実証者として、おかげを頂いていかなければならない。

昨日は、皆さんも、御覧になったでしょうけれども、私は、もう、生まれて、はじめて野球というものを、はじめから最後まで見ました。直方の、毎日、日参をして見えます、山本たか子さんの甥になるとが、あの、下関商業に出ております。選手です。あらゃぁ、なんちいうですかね、こう、投げるとですたい。ね。おかげで負けるはずのが、快勝でしたね。その前日、山口支部の共励会でしたから、末永先生たちが、何人かで、あちらへ参りました。山口に入って、ある、あの、まぁ、喫茶店でお茶を飲まさせて頂いておる時に、山口のなんか、放送があっておったと。そして、その、「山口の、下関商業は、今度は、もう、本当に、不が悪かった。」と。もう、「優勝の、うん、するだろう。」と言われるほどしの、相手の、ありゃぁ、なんとか、(宇都宮学園)、何とか高校ですか、何とか学園とかいってましたね。だった、大変、強いんだそうです。だから、本当に、「下関商業が不が悪かった。」という、テレビか、ラジオで放送しておったのを、「聞かせて頂いた。」というて、昨日、末永先生が言っておましたが。まぁ、山口の人たちは、それを、大変、同情してのことだったでしょうけれども、実祭は、5対6、うん、6対1でしたかね。5点差で、いうなら、勝ちました。もう、それこそ、あの話しがあってから、毎日、毎日、日参してみえますが、毎日、特別の御祈念が、してございまして、ええ、先生たちには、信心がありませんから、あのう、ここの、御神米を、みんな一体づつ、ここにお祭りしていってます。先生、ね。そして、ええ、試合が終わった後に、いろいろ、言ってました、あのう、監督。いや、その、うん、下関商業の監督さんが言ってましたが、もう、もう、ただ、「ラッキーです。ラッキーです。」ということばかり言っていますね。「ラッキーでした。」ということ。すると、また、それを聞いておるアナウンサーの方が、「その相手の高校の方の、いわば、力というものは、もう、充分、とうとう出し得ずにしまえた。」と言ってます。ね。不が悪いのが、普通でいうなら、「不が良い、ラッキーだった。」と、こういうことになりますけれども、私は、とにかく、「一日目の、一番目に試合」というお届けがあった時に、「こう、これだけでも、神様の働きを信じんわけにはいかんな。」というて話したことでした。三十校が、十日間に渡ってやるそう。その、第一日目の第一回目に選ばれたんですよね。まぁ、くじで当たったんでしょう。くじ引きでだしたんでしょうから。ね。本当に、いうならば、「野球の試合も、合楽理念をもってするほかない。」と言わねばおれないほどしの、いうなら、おかげを受けた。ね。なるほど、山本さんが、一人で御祈念なさっておられますけれども、ね、その関係、または、その先生たちも、うんなら、金光様ということは知らない。「ただ、願って下さっておる。ただ、御神米をお供して行っておる。」というだけである。「なるほど、この神様は、銭金では、拝まん。」と仰るが、ね、いうならば、ね、それを、例えば、勝ってもです、ね、金光様のおかげとも、まぁ、思わなら人の方が多いでしょう。ね。それでも、やっぱし願えばね、おかげを下さる神様。真心もって、一心に願えば、おかげを下さる。ね。銭金ではない。天地が示して下さることを教えるのが宗教。

昨日の御理解の中に、はじめて使った私の、言葉がありましたですね。超真理、超法則ということを申しました。ね。この辺のところに、いうならば、金光大神の教えの、まぁ、ずば抜けておるのは、もう、当然ですけれども、天地から示されたことを、御理解に残しておられる。それを、私共は、ここ百年ね、そういう内容を知らなかった。それを、改めて、合楽誕生と同時に、神様が、次々と、天地が、私を通して示して下さる信心を、だんだんと進めてまいっておりましたら、今日の合楽理念ということになってきた。しかも、その合楽理念は、超真理であり、超法則だと。昨日、研修の時に、先生方に、「あんた、合楽の信心が、どこが、超法則か、超真理か、みんな、分かるか。」と言うて、まぁ、みん、質問を求めたことでしたけれども、ね、合楽で言われる中にはです、もう、確かに、超真理、超法則と、はっきりと説明のできれること、ことが、いくつもあるのです、ね。だから、本当は、超が付くような、おかげが頂けるわけです。ね。けれどもね、それを、ね、行じようともしない、分かろうともしないならば、それが、おかげに?がるはずがない。ね。こんな、たいした、大変なことだから、ね、いうならば、これこれの、いうならば、その伝授料とでも申しましょうか。もう、お金の頂けれる、虎の巻のようなものですから、ね、それを受けるのにお金がかかるということではない。むしろ、こちらがお金を出してでも、分かってもらおうとしておるのが合楽です。

昨日、一昨日、いろいろな、ここに、まぁ、教会内で、ちょっとしたことがあった。そのことから、よしだ先生が、ここ、まぁ、去って行った。いわゆる、修行をやめて帰られました。ね。「金光様の先生になる。」というから、なら、もう、それこそ、衣食住の総てを合楽で、おかげを頂いて、まぁ、お育てを頂おる、ね。これが、もし、お道の教師ではなくて、ただ、自分たちの、昨日、そん、帰る時にも、もう、帰って、また仕事させてもらうんですが、ね、「合楽理念をもって、今度は、本当に仕事をさせてもらいます。」というて、帰ったけれども、ただ、合楽理念の本当に、を、覚えることのために、ここに通うてくるならば、こりゃぁ、反対に授業料をもらわなければいけないでしょうが。ね。ただ、一心、全身全霊を、そういう、有難い、人の助かることのために、ね、奉仕させて頂くことの決心がついたから、神様は、いうんらば、わずかではあっても、ね、いうなら、小遣いまで下さって、衣食住のこと、すべてを、を、で、まかなって下さったんです。ところが、もう全然、御祈念にも出て、あの、朝の御祈念には出てきておったそうです。出てこないし、研修にも、全然、出てこないし、ね。どこにおるやら分からないように、そして、夜な夜な出て、その、行くというようなことを、若先生が聞きまして、ね、その、わけを聞いたら、結局、まぁ、言うわするならば、「あのう、もう、ここを辞めさせてもろうたほうがよか。自分は、自分の仕事、いろんな問題も、いっぱいもっておるから、家庭の、だから。」というので、かもしれん、と、私しゃぁ、思うたんですけれども、神様に、そのことを、お取次ぎさせて頂いたら、ね、あのう、電気の傘が、ちょっとばかり、こんなに、よがんでおるところを頂いた。よがんでおるということは、ちょっとしたから、こうして、こすりゃぁ、もう、すぐなるでしょうが。ね。ゆがんでおることを、まっすぐすることは、すぐでける。その周囲に、あのう、丸い蛍光灯が、点いておるところを頂いた。ね。だから、まっすぐしていくと同時に、いうならば、周囲に、なら、よしだ先生、あんな、とても人間的な、とても良か人ですからね。それで、まぁ、あちらで、いうなら、周囲が明るくなるような、いうならば、合楽理念に基づいて、商売をする。事業をする。そして、その周、関係の人達が、合楽理念を聞いて、また、そこに、明るいものが生まれてくるといったような、お知らせを頂きましたから、うん、私は、あの無理に止まれとも、言うわないし、帰れとも言わない。「まぁ、あんたのよかごとしたらよかろう。」と言うて、まぁ、話したことでしたけれども、なら、ここでね、いうならば、おまかないを頂いて、いうなら、しておるものが、いうなら、そのけいこを、に打ち込まないならなば、これは、おかしいでしょうね。それこそ、打ち込まないならば、うんなら、反対に、こっちが、もらわなければでけん。ね。それけん、自分のよか時、辞めていくというぐらいなら。それけん、ぐずぐずしておっても、だーれんどん、行ってもないですから。けいこもせん。いよいよもっていけない。といったようなことでも、合楽では、そして、あのう、まぁ、そのことだけではございせんけれども、いかに銭金で拝んでおるとじゃぁない。いよいよ、もって合楽理念を世に問わせてもらう。合楽理念をマスターして、自分が、実験者となって、それを、人にも伝えていけれる、取次者としての御用に立たせて頂きたい。また、そういう働きが起こってこなければならないという、意図のもとに、合楽での修行をしておるんだと。ね。算盤づくのことではない。人が助かることさえすればである。ね。

まぁ、いうならば、「どうすれば信者が増えるか。沢山の人が集まるか。」という方法論は、私は、今日の御理解からいくと、ね、神を商法にしておるような、いうならば、デパートの客、客寄せの、宣伝をしておるのと同じことだと思う。ね。合楽の場合は、反対に、それこそ、身銭を切ってでも、ね、人が助かりさえできれば、人が助かることの、そのもとを、が、できるならば、ね、という生き方。それは、天地が示されることを教えていくという、生き方ひとつに、合楽の場合は、絞ってあるから、それができるんだ、ね。そういう、いうならば、働きの中に、お互い、合楽に御神縁頂いておられるんだ、と、ね。だから、昨日、私、その研修の時に申しましたけれども、そういう、いうならば、自覚に立ってです、お互いが。そういうためには、どうあらなければならないか。「そういう働きが、自分の信心から起こってくるような、ひとつの使命感に立ってからの修行でなからなければならないよ。」と、まぁ、いうことでしたけれども、これは、うんなら、ここにご縁を頂かれる、みなさんの場合でも、それが言えるのじゃぁないだろうか。ね。どうでも、だから、みなさんがです、ね、覚えなければ、実験者にならなければ、そして、実証者にならなければという、神様の願いが、皆さんの一人一人にかけられておるんだ。ね。そこから、助かりを、輪が広がっていくという、私は、助かりを広げていきたい。教祖のお言葉をそのままに、「此方は、銭金では拝まん。」ね。世の中には、ね、いうならば、神を商法に使っておると言われるが、今の、私、宗教の、先ず、ほとんどが、それは、お道の信心をも含めて、ね、「ただ、どうしたら人が集まるか。」という方法論を言っておるならば、「これは、神を商法に使おうとしておる」ということになるのじゃぁないでしょうかね。どうぞ。